ロックンロールに蟀谷を

踊れないほうの阿呆。Twitter:@oika

徳を積んだ話

 関東某所へ長き出張へ来ております。

 先月末の暦上の3連休は最終日にやっと休みをもらえて、どこかオシャレなカフェでゆっくり休日モードのプログラミングなど嗜みたいなと思い立って、お上り電車で移動中、ふと「あー徳を積みたいなー」という感情が沸き起こり、ツイッターでそのままその感情を垂れ流したのです。

 すると言霊的なあれなのか、カフェを渡り歩いているときに水ヨーヨー持った貴婦人らに「どこにいかれるんですかぁ?いまお祭りやってるんですよーお時間ないですかぁー10分だけ、5分だけでも良いんです、僧侶さんのお話を聞きに行きませんかぁ」とまくしたてられ、夏祭りのお誘いに唐突に僧侶が登場した時点でこれはダメなやつだと思ったんですが、なにせ徳を積みたいと発言した手前、これを断ったら発言と行動の認知的不協和に苛まれて自我を失い不幸な一生を終えることになるのではと思ったので、ついて行きました。

 1人が僕に気が変わる隙を与えないよう猛烈な勢いで世間話を投げつけてくるあいだ、少し離れてもう1人がどこかに電話をしている。

 1人ゲットしやしたぜ、いま連れていきまさぁといった内容だろうか。

 

 我々はどこに向かうのですかと訊ねると、ニチレンダイショウニンサマの~と答えられ、ちょっとビックリして続きを聴き取りそこねた。

 ニチレンダイショウニンサマ。その名を聞くのは2度目だ。

 学生の頃、鈍行列車での旅行中、大宮だったか赤羽だったかの駅の外にあるベンチで独り駅弁を食べていたら不幸オーラが出ていたのか、元ヤクザと名乗る強面の男に声をかけられ、俺のこの小指がいま繋がっているのもニチレンダイショウニンサマのおかげだとかとうとうと説かれた記憶が頭に蘇り、しばらく彼女らの話が耳に入らなかった。

 

 ちょっと後悔してる間に到着したそこを、彼女らは非常に有難いお寺であると紹介したが、知識のない自分にはその建物は何かの作戦本部ビルのように見えた。

 門の前にはけっこうな人が集まっていて、こういう人たち特有の馴れ馴れしさで各々声をかけてきた。また建物の中も中でそこそこの大所帯であった。

 本堂と呼ばれた広いホールで数珠を渡され、前のあそこを見ながら南無妙なんとかを3度唱えつつ心の中で願い事をしてみてくださいと言われたが、咄嗟に思い浮かぶ願いはどんな寛容な神にも呆れ顔で溜息をつかれそうなことばかりで、恥ずかしくなって無心でそれを発音した。

 そもそも初対面で突然願い事なんてされても向こうも困るでしょう。

 

 その儀が終わると今度はバックヤードに続くドアのようなところを抜けて、エレベーターで別の階の会議室のようなところに通され、椅子に座ると後から別の女性がよく冷えたお茶を持ってきて、僧侶様がいらっしゃるまでお待ちくださいと頭を下げてまた去っていった。完璧な接客だ。

 僧侶様を待つあいだ、隣のヨーヨー婦人に、きみたちは何者かねという旨の質問をしたら、私は某大手百貨店の社員である、そっちの彼女は某なんちゃらショップの店員であるという回答。

 2人とも、どんな表現だったか記憶が曖昧だけれど、とにかくここに来るようになってから色々幸せですというようなことを語った。

 続けて彼女が言う。「私達は『徳を積む』という言い方をするんですけど…」きたぞ、ついにきた。それを聞くために来たのだ。

 彼女が私的なイメージですがと前置きしたうえで言うには、徳とはポイントカードのようなもので、行いによってポイントが増えたり減ったりするのだとのこと。

 そして、今日ここに来ただけでも徳が積まれましたよということだから、当初の目的は果たされたことになる。もう帰っていいかなと思っていたところに僧侶様が到着した。

 

 彼と彼女らの組織的な関係性はよくわからなくて、僧侶様は、眈々と仏教の思想、そして他の宗派がいかに不完全でこの宗派がいかに素晴らしいかということを話しておられたが、だから君もここにおいでよという勧誘にはあまり興味がないらしく、その姿勢は新入生へのサークル紹介で勧誘よりも観客を驚かせることに主眼を置いてしまう大学の奇術研の連中を思い出させた。

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 人の業とは大容量HDDのようなもので、消えたように見える前世の業も完全には削除されないんだと、なんだか身近な業者の営業マンのようなことを言う僧侶の話は面白かったが、適当に区切りのついたところでコレがコレなもんでときりだして退散。

 帰りにも再度数珠を渡されて南無妙なんとかを3度唱えて、そういえばお祭りはどこにあるんだよとか思いながら入り口の門をくぐった。

 別れ際、ヨーヨー婦人に何度か苗字を聞かれたが、facebookで検索されてはたまらないから、一期一会ですねなどと言葉を濁して手を振った。


 それにしても、この国の宗教活動はなんでああいう形をとってしまうのだろう。

 動機は信仰を広めたいという一点なのかな。それ自体悪いことでないと思うし、今回も何も危害を被ったわけでもないけれど、どうしてああいう露骨に胡散臭いやり方になってしまうのか。

 宗教と聞くとそれだけでうさんくさい何かをイメージしてしまうけど、そういうイメージがあるからやり方が胡散臭く見えてしまうのか、あるいは現にやり方が胡散臭いのか、わからないといえばわからないが。


 そしてそしていつも驚くのは、あの胡散臭いやり方で、よくあれだけの人数が集まるなぁということ。

 語弊があるかもしれないけど、こういった形の宗教活動にハマる人と、マルチやネットワークビジネスにハマる人とはどことなく共通点がある。

 不自然な*1優しさ、不自然な馴れ馴れしさ、不自然な積極性。

 けれど根底にあるモチベーションは、もしかすると他のどんなコミュニティ(会社・ボランティア・サークルetc)で活動する人とも同じで、暇で、孤独で、居場所が欲しいっていうだけなのかもしれないななどと思います。

 おしまい。

 

 

*1:あちらから見ればこちらが不自然なのかもしれないけど、少なくとも自分には不自然に見えるという意味